2009年02月22日

タナトスへの恋『ヴィヨンの妻』

 最近のエントリを読んで、「辛そうな事が多いように感じたんで」というメッセージをもらった。言われてみれば、最近少し加速は落ちたものの、急に狂ってみたくなるとかそういう散文的な「病」がなくならないわけでもなく、別口から「タナトスとかそういうの?」と言われ、原因が何かやっとわかった。
 この本のせい、かも?(キイナ風に)

 こないだ書いた通り、太宰をほとんど読んだことがないのに、今回たまたま手にしたのはなんと最晩年の作品集。文学的総決算、と書かれてますが人生の決算だろー、とツッコミたくなるオイラ、まだまだ大丈夫なはず。タイトルはフランス文学史上で最高の抒情詩人と呼ばれている無頼・放蕩の詩人フランソワ・ヴィヨンから取っているようです。

 この本を通して、常に自分を客観的に、または諧謔的(自虐的?)に描こうとしている太宰の姿が見れた。だって、一人称にすれば、陳腐な言い訳しか出てこない(『父』参照)。しかしなんと古びない作品世界だろう。虚無(ニヒル)な情熱も打ちこわしてしまう奇怪な幻聴に悩まされる『トカトントン』、一見悲惨な家庭から「人非人」でも生きてさえいればと実にあっけらかんと開き直っていく表題作は、神の救いなき時代をまるで先取りしているようだ。実際、表題作は誰かが既に設定を置き換えて短編映画を撮っているのではないかとさえ思われる。

 にしても、読んでいてとても辛いのは『おさん』という作品だった。これは近松浄瑠璃『心中天網島』に出てくる、遊女と浮名を流す夫を情けなく思いながらも甲斐甲斐しく夫を支える良き妻の名前だと調べてわかった。この名前を借りて妻がいながら恋をしたという夫を冷ややかに見ているという設定だけれども、つまりは自分の内なる倫理感との対話だったのだろうかと思う。そして結局は現実世界に生きる妻には、婚外恋愛が革命に似ているという感覚はわからないのだろうというエゴイズムも見え隠れしているように思えてならない。さらに怖ろしいのは、ここに書いたことを、実際に太宰が演じて(実行して)見せたということ。事実関係は良く知らないが、心中することは既に決まっていたのではないだろうか。(まあ何回も失敗してるけど…)

 妻という立場は実につまらんなと思った。相手が帰って来ないなら来ないで、自分も勝手にやっていく、という内縁だか愛人だかよくわからん『ヴィヨンの妻』の方がよっぽどか面白い(現代はもう週末婚というのもあるわけだけど)。いや、さらに言えば、くらぽー自身は多分家庭を守るのではなくて、常に革命を希望する無頼でいたい気持ちの方がよりわかるのだ。でも倫理感が強いと、自分が居ない方がすべてうまく回るんじゃないかと思ってしまう(そして実際そうだと思う)。太宰を縛っていたのは家庭ではなく自らの倫理感。それがある人間は、革命など起こしてはならないのだと思いながら、落下していく時の浮遊感はまた怖ろしく甘美な麻薬である。女に比べて、男の方がロマンチックなのだ。そして、くらぽーは男の気持ちの方がわかるような気がする…。
「曰く、家庭の幸福は諸悪の本」とまでは思わないけども。(だってこれも言い訳くさい)

 あ、体重は、あと3〜5キロは痩せたいと思っていた3年前と比べて7キロだから、そんなに心配することではないでしょう。

 あとは、例によってメモ。

「正しい人は、苦しい筈が無い。(略)世の中を立派に生きとおすように生れついた人と、そうでない人と、はじめからはっきり区別がついているんじゃないかしら」(『おさん』)

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posted by くらぽー at 02:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 読んだ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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