2008年06月16日

美の黙示録『美の呪力』

 読みながら、志麻子ねーさんもこれを読んでたのだろうかと思った。表現や考え方に共通点が多いのだ。土俗的・未開・未明の暗闇を取り上げるとことか。芸術家はいつだってそうだ。ニセモノの天国よりホンモノの地獄を崇める。だから、空に空しさを覚えてみたり朝に絶望してみたりする。

 やたら理解困難な表現は出てくるけど、岡本太郎の言ってることは一貫している。死に相対し、怒りながら自己の中の絶対(他)者と向かい合う(無目的的にすべてに「ノー」と言い運命に挑む)時、矛盾を超えて世界をつかみとる事ができ、人間は人間になれる。そんな感じ。論理じゃない。感じないといけない。
 聖は俗で、俗が聖。中世以前の人間の生活の営み(祭礼や儀式の呪術)の中にこそ真の芸術がある。優雅でありながら野蛮。静謐の中にこそ激情が迸る。怒りながら心の中で笑っている。真剣でありながらどこか他人事のように遊んでいる。

 なんというか、最近の危ない思想で事件を起こす前にこれを読んでみたらどうだろう。その通りだと思って実行しないように。昔、中学の美術の先生が言うには、授業で好きな作品を作ることになった時「爆発」発言に則って火炎瓶を作ろうとした生徒がいたそうな…。

キーワード:矛盾(二重性)、透明、怒り(憤り、爆発)、宇宙(世界)、ノーブル(高貴)、傷口

(岡本太郎)


 以下は個人的覚書みたいな感じ。

第4章
血の絢爛。ここについてはちょっと過激すぎると思った。


第5・6章
「(感情の爆発とは)静かで、透明で、神秘のすじが宇宙をおおうような、そんな精神のひろがり」
「憤りはもっと無条件に、純粋に、透明な形で放射すべき」
「怒りは宇宙に透明にひろがる情熱、エネルギー」
核爆発の放射状爆風みたいなものか?

「青空に、そして自分自身に向かって矢を放つ」
 このイメージが好き。
 なぜかスピッツの「(恋は)迷わずに飲む不幸の薬、ささやかな悪魔への祈り」を思い出してしまった。


第7章
「まことに人間というのは根源的に矛盾的存在なのである。
自分と、自分を超えたものとを、いつも自分の内にもち、
そしてその双方をしっかりとつかんでいなければ本当には生きられないのだ。
引き裂かれた存在、その矛盾の意識は決して他の動物には見られない」
「変身した自分と、自分自身とのズレ。それは孤独ではないか」
「世界と同化しながらまた孤独である」


第8章
「火はよろこびと不安感のバランスの上にある、危険であり、破滅を意味する。(略)
呪いのような危機感を花のひらいた姿として感動的に、美的に感じ取ったりする」
「金剛吼菩薩」の描写
「瞬間に凍りついて、透明に凝固している炎こそ、火の最も強烈な捉え方と言うべき」
「強烈な表情をもって迫ってくるのは、ほとんど何か不吉な、凶々しい火である。(略)
どうも、情感的な火は楽園や天国にはない。地獄の方に燃え上がるようだ。(略)
罪を、汚れを、無垢な頽廃を吸って、音なく燃える。しかし、それは透明なのである(略)
だがその透明感はまた限りなく混沌としている」


第9章
「純粋な人間は子供のときから身の内側に燃えつづける火の辛さに耐えなければならない。
その火の故に孤独である。(略)純粋に燃えているにかかわらず、火を抱いているということは
不安であり、一種の無力感なのだ。(略)この世に生れるとき、あるいはもっと遠い過去の暗闇のなかで、それに誓いをたてたのだ。
―いつ、―何を、誓ったのか、知らない。
ただその誓いによってこそ炎が燃えあがるということしか知らないのだ。
だが、この聖なる火。もてあましながら、しかし守りつづけ、抱えていかなければならない」
「しかし、ある日、炎の意味を悟る。(略)世界に躍り出る。そして否を叫び続ける。(略)
その激しい姿は当然、他からは『犯す』者として映るだろう」
 世界の中心で否と叫ぶんですね…。
「この世界は自分であり、自分は世界である。この世に生きている限り、こういう絶望的な絶対感は誰でもの身の内に燃えつづけている」

 これ、一般人が口にしたら絶対頭おかしいと思われるよね…。


第10章
 もう一つ、好きな部分。
「白日のもとで(略)人はほとんど絶望する。(略)明らかだからこそ、心はとざされる」
「夜―孤独を身に噛みしめながら、とき放たれ、自分を超えたイマジネーションが八方に走るのだ。
黒々とした闇のなかに、忽然と、身体中から触覚がのびはじめる。無限に向かって。(略)
この無限に透明な世界は、それ故に混沌なのだ。」
「輪廻を直観するのは、出発点においてではなく終着点からである」
「旭日とともに人間が生まれ、運命がひらくように考えたがる。しかし私はそれは逆だと思う。
一日の終りから、生命が燃えあがるのだ」

 これほど夜が創作の工房であるということを熱弁してくれているとは思わなかった。
 夜にしか創作も思考も活動できないくらぽーにとっては勇気がもらえる言葉ですね。

 ゴヤもゴッホも、絵ではなく自分を描いているという指摘。
「狂気なほど原色をほとばしらせ、太陽を描いたこの男(ゴッホ)を、私は、夜の画家だとおもう。(略)彼自身が夜だったからだ」
「彼の作品を『絵』だと思って見たことはない。絶望的な呪文、そのなまなましい傷口」
「辛い同情、というよりも、なにか自分の存在のなかで一番救われない思いのする塊に、ゾッとふれられる」
「彼には才能があった。一般はとかく才能と技巧を混同しがちだが、二つは異質なのである。
この才能こそが逆に、彼が苦しんで突き破ろうとしたものを、ふとそらし。『絵』にしてしまったのだ。
(略)もし、この才能もなかったら。それはもちろん、何もなくなってしまうということだが。
―しかし、そうしたらもっと凄かったろう。もっと『絵』ではなく、恐るべきものになっただろう」

 これはとても怖ろしい言葉だった。『画家の生活が、ほんとうの生活ではない』という』ゴッホ自身の言葉(アルルからの手紙)は、以前も印象に残ったけど、ゴッホは芸術に熱烈に恋しながら、芸術からは愛されなかったんだろうか、と思った。
 しかし岡本太郎は続ける。

「彼は絵描きではなかった。ひたすら人間であった。つまり、本当の意味で芸術家だったのだ。
だから瞬間瞬間に絶望にぶち当たる。いわゆる絵描きたちはそういう人間的な悲劇、その矛盾の情感をもっていない。(略)
だが本当の芸術家はそれだけでは自分自身を許さないはずだ。」

 ここにきて、文学の身体性について卒論で取り上げた、文学を放棄したランボーに対して、間違いではなかったという確信が生まれた。

「絶望的な生甲斐であり、あれほど追い求めた、執着した芸術を放棄した、その瞬間、彼にははじめて人生の、つまり芸術の真の意味がわかったのだ。芸術なんて何でもないのだ。
それを見極め、捨てたところから、はじめて本当に意味がひらける。
芸術に憧れ、しがみつき、恐れ、叫び、追いかける。そのような芸術主義では、ついに『芸術』に達することはできない」

 結論がつながっていた…。
 ただ、くらぽー自身のecrirについて、彼女と約束したから、これだけは放棄できないのだ。放棄することは、つまりゴッホと同じように死ぬことを意味するから。

 ヒントはここにあるだろうか。
「中世において、人は矛盾に対面しながら透明でありえた。近代人はそのとき己れが破れるほかないのだが」


第11章
 北アイルランド・カーンドナの十字架。
「この始原的世界のなかにとけこむと、磔でさえ広い自然のなかに、透明なシンボルがあるという感じになってしまう。(略)
それなのに、私にはあの透明な姿が、なにか傷口のように感じられてならないのだ」
「絶望的な永劫回帰。旋回し、もどってくるように見えて、しかし再び帰って来ない。(略)
絶望的といってもだから暗くはない。爽やかな風として吹き抜け、清らかな運命として消え去って行く」

 螺旋になって消えていく風。すべてそうでありたい。


posted by くらぽー at 11:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 読んだ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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