2009年04月21日

黎明の豊饒『四万十川』(あつよしの夏)

 イメージをうまく言い表せないけど、思春期前の物心がつく幼少年時代を、人生の黎明期と捉えられないだろうかと思って。解説によれば、「きっと私たちは、思春期と呼ばれるあの一個の暗澹を通過することによって、それ以前の無数の生(注:リルケの言葉による、しかしここは「命」か「生命」の方が適切な訳ではないか)を忘れ去るように出来ているのであろう」とある。でも実際、くらぽーは思春期よりもそれ以前の小学校時代の方をよく思い出せる気がするのだが。


 昔、ベネッセの教材でこれが出た時、コロバシ漁の部分しかなくて、何が面白いのかちっともわからなかった。あの引用部分はひどかった、この物語のいい部分がちっとも引き出されてなかった点で。少年の瑞々しい成長の話、とは本当に一言で言いたくない、大切なものを思い出すための物語だ。

 猫が出てくるのも1つは大きいかも知れない。子猫の描写や、それに関わる篤義の家族の様子など、ここに描かれている「愛情(エフェクション)」がとてもいとおしい。特に、クラスでいじめられている少女の話題が出た時の、母親との会話がいいと思う。説教ではなく、子どもにちゃんと自分の意見を言わせているからだ。
 これも映画にはならないのだろうか、すぐ考えてしまう。この本を知らずに生きていくのは人間として恥ずかしいとさえ思う。

 兄の和夫の言葉が、ストレートにささる。
「おまえが、どうしたち(どうしても)、こうせにゃいけん思うがなら、そのとおりにやったほうががええ」
「何でも、入口がおおごと(大変)ながよ」
「今日堪えられたら、あしたも、あさっても堪えられるけん」
「喧嘩せにゃいけんときもあるがぞ。喧嘩せにゃいけんときやらんがは、優しいがじゃないがぞ」
「まけれん喧嘩は、何でもやれ!」

 最後の言葉を、とある集まりに彼の浮気相手も来る事を「(彼女が来ないと)他の人も淋しがるから」と言って自分が過呼吸になっても我慢していた女の子に捧げたい。守らなくてはならないものがある戦いは、正当化されるべきではないのか?勿論、話を国際問題にまで広げるつもりはないけどw


 以下はメモ。

『おまえも、つまらんこと、よう覚えちょるねえ』

『…子供は、いろんな気持ちをいっぺんに持っちょって、その状態のまま、いろんなことにぶつかる。(略)現実、生きちょる以上、大人もおんなじじゃ思うがよ。(略)自分の中で喧嘩をしよるような気持ちを一緒に持っちょることも多いけんど、その一方を、強調して見せたり、暴き立てたりしたら、子供の成長を潰すことんなるけんね』

『アツは人と競争するがができんけん。学校行くようなって、戸惑うたがじゃなかろうか』

「篤義は、その言葉の渦に乗るだけの経験も、もちろん言葉も持ちあわせてなかった。」

「彼はいつも、じっと堪えていた。そんなとき彼は、自分の周囲の風景が、人も物も、自分から遠のいていくように感じるのだった。」

「今の社会は、仲間を大事にしたり、思いやりがあったりする人間より、他人を蹴落としても上に行こうとする人間を作ろうとしよるがじゃなかろうか。(略)内容は弱肉強食じゃけんね。そうするがが自由なことを、自由社会言いよるがなら、たしかに自由社会じゃろうが、人間の心は、やっぱり環境で決まるけん。」


posted by くらぽー at 01:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 読んだ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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