2009年06月10日

生きていくポリフォニー〜チェーホフ・「PARIS」「モンテーニュ通りのカフェ」(前)

 実は、最近縁あって演劇の研究をしている知人ができました♪とある学校で講義をされているとのことで、それに呼んでいただけました。「テクストと演出」というテーマで、その回はチェーホフ…。昔「櫻の園」を少し読んだけど、なんか意味があまりわからなくて吉田秋生の漫画の方が面白く感じた記憶が…。でも、前回の「同じ作品を違った演出で観ること」の研究には欠かせないかも。
 
「とりあえず○○のシーンのところだけでも目を通しておいてください」というお願いに沿って、前日図書館に本を探しに行く。が、その日は休館日…!諦めて明日行く前に寄るか?とも考えたが、少し迷って近所の古本屋を巡ってみる。意外と芸術系とか文学系とか多くてびっくり。チェーホフ全集とか絶対ありそうと思って回ったが、なかなか見つからない。
 ところがこれで最後かと思った3軒目。タイトルが日に焼けて見えない分厚い本をたまたま手にとって見る。すると、『チェーホフ戯曲選』のタイトルが。思わず戦慄、腰が抜けそうになる。さらに、ブックオフを覗くと阿刀田高の『チェーホフを楽しむために』を見つける。なんと両方とも課題の3作品が載っているではないか…!特に、『楽しむために』はチェーホフの読み方をしっかり解説してくれていた。

 要するに、主人公がはっきりしていないこと。人物は重要度がA〜Cのクラスに分類される、群像劇。それを頭に入れるだけで全然作品世界の把握が違ってくる。また、ドラマらしいストーリー(筋)はあんまりない。というか、ドラマにストーリーを求めてはいけないのだな、という方が正しいのかもしれない(後に詳述)。
 別の章では、トルストイのシェークスピア批判の話から、小説と演劇の理論の違いを明確に説明してある。「小説は全編を通してリアリティーを求めるが、演劇は個々の場面における(中略)観客を揺するリアリティー(注:演技や台詞など)を求めている」ということ。また、(意外なことに)小説家であり劇作家であったチェーホフは、そこから場面を重要視する劇的でもあり、人間心理を描く小説的でもある独自の作風を生み出したということ。「誰かが到着し誰かが去って幕が下りる」のがチェーホフ劇の典型ということで、しかし「それまでの一つ一つの場面が輝いている」のは「ストーリーよりも一つ一つの場面に重きを置いている」ということに、なるほど…?と思った。


 講義では、チェーホフ作品の演出についてのビデオを鑑賞。ピーター・ブルックしか知らなかった(汗)けれども、実に様々な演出がなされていて、一番はっとしたのは、『三人姉妹』のラストで、それぞれが「生きていかなければ」「それがわかりさえすれば」「働かなくては」という台詞を、まるで軍楽に合わせたシュプレヒコールのように交互に言っていた作品。その時、これは三人姉妹それぞれのドラマが織り成すポリフォニー(多声音楽)だと閃いた。小説にだってポリフォニーと呼ばれる文学(それもドストエフスキーらしい)があるのだけれども、演劇に初めてポリフォニーの地平を切り開いたのはチェーホフなんではないだろうか。冒頭から、20世紀の演劇を作ったのはチェーホフ、と言われてフランスでも盛んに研究されてるなんて全然理解できなかったけれど、今まで観てきたナイロン100℃「わが闇」とかだってどう考えてもチェーホフから来てるに違いないと確信した。それで観方もわかってきた。話の筋というべきストーリーは、人物の持つドラマに飲み込まれ、そこではほとんど機能する必要がないのだ。


 なので、先日観に行ったフランス映画「PARIS」も、難なく観ることができた。むしろ面白かった。その前の「モンテーニュ通りのカフェ(原題Fauteuils d'orchestre:オーケストラの席)」にしろ、きっとタイトルは人生がポリフォニー(オーケストラ)だということをはっきり示していたと思う。



 ちょっと力尽きたので、次回に続く。


posted by くらぽー at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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