2005年09月12日

孤独と拒絶のあわいに「スプートニクの恋人」(ネタバレ注意!)

 司馬短篇集はまたお休みですが(もし万が一待っておられる方にはどうもすみません!)、新しい本の紹介です。春樹ですよ春樹(また無礼だな…)。

 勿論知り合いでも何でもないですが、この作品を読んでやっとこの作家が近くに感じられるようになりました。永遠に宇宙をさまよい続ける衛星。そのイメージはとても鮮やかなほどに伝わってきたように思います。最初に読んだのが、すごく素直に表現されたこの作品だったのが幸いだったかもしれません。この人って、文学的(思考的)というよりは絶対イメージ先行派(芸術的)ですよね。

 これを読んでる間のBGMは、oasisの“LET'S ALL MAKE BELIEVE”でした。なんか歌詞がすごくハマる気がするのはオイラだけですかね。

 あと、「素粒子」というフランスの作家(思い出したら書き直します)の作品も思い出しました。あの話もまた、現代の人々の孤独を、極めて現象的にもしくは物理的に表現しているように思います。村上春樹は散文的でさらっと読めますが、こちらは哲学書や大学の教科書を読む感じです。あー、もっとも描写は俗っぽいですけど。

 そういえばマルケスの「百年の孤独」も、到底救うことのできない愛の欠落による孤独の年代記でしたねぇ。

 こうやって近頃読んだ2作品(とはいえ井戸の外にいた頃ですが)と比べてみると、遙かに救いがあるような気もします。もちろん、現実的でない気もしますが。

 なんていうか、結局は現実は耐えきれないもので、生きていくためには自分に都合のいい虚構の現実を作り出す(これが「夢を見る」ことなのではと思うのですが)しか方法はない、と言っているようで、まあそれが「さあ、世界に飢える人々なんていないと、俺たちは今でもお互いを必要として、年を取ることはないと信じこもう(ふりをしよう)」というoasisのさっきの歌に通じるような気がするなあ、と。

 で、そんなことは決して誉められるものじゃないんですが、といって非難されるべきでもないだろうと。

 いや、この作品がファンタジーであるとかはっきりカテゴライズが出来るなら、単に夢の世界は存在する、でいいんだと思います。

 漫画だけど「天使禁猟区」では、一瞬虚構の現実に足を踏み入れるんだけどもそれとは決別して妹を取り戻しに異世界に行くんですよね。つまりそれと同じことに出来る。作者がしようと思えば。

 でも飽くまでもこの作品はそういうジャンル分けを拒んでいる。そのふわふわした捉えどころのなさに、余計行き場のない不安を煽られてしまうんです。

 また、作中で扱われている“シャム双生児”という比喩に着目すると、ここでは登場人物すみれが知と非知など正反対とされる2つの事象について「すべてはよりわけ不可能」であると言及したのに加え、2つの関係を挙げることができると思います。

 一つは、表題にもある通り、孤独と拒絶(あるいは非理解そして理解)の関係です。これはやはり、切っても切れないと思うのです。どちらが原因でどちらが結果なのか。

 そしてくらぽーが考えるもう一つは、主人公とすみれの関係です。

 勿論二人は赤の他人同士です。ポジションとしては、主人公は殆ど語り手で、どちらかというとすみれの物語でしょう。しかし主人公の話にすみれの話が内包されているという単なる入れ子構造ではなく、すみれの物語を語るには主人公の物語が必要で、主人公の話はすみれの存在抜きには語れない。自ずとこの物語は二人が主人公となるはずです。

 勿論この関係はすみれともう一人の人物、ミュウとの関係にも言えるかもしれません。すみれはミュウの瞳に映る自分の姿を、「鏡の向こう側に吸い込まれてしまった自分の魂」と見ています。

 ということはつまり恋愛というものが相手を自分の物語に、そして自分を相手の物語に引き入れることに他ならないという説明になるだけかもしれません。実際「わたしがもしここで箱のふたを開いてしまえば、あなたもまたこの話に含まれてしまうかもしれない。」という台詞もありますし。

 しかし、「あちらの世界」に分身が切り離されてしまった彼女は「半分」になってしまい、その時点でもうすみれのシャム双生児とは言えなくなります。むしろあちらの世界の分身が、新しい片割れとしてすみれを呼んだ(行ったのは勿論すみれの自由意志ですが)と言ってもよいでしょう。

 ミュウは自分を引き裂かれたのですが、すみれや主人公のように「奪われて」はいないのですしすみれの半身とはいいがたい。ミュウは一人でシャム双生児として完成(?)しているわけです。すみれはやはり自分が分割されていくような感じを受けていきますが、それは主人公との“分割”としてもよいのではないでしょうか。そして主人公も自らの片割れ=すみれに呼ばれ、あちらの世界にすみれを探しに行く、と。

 で、ここで一つの予感が起きます。主人公とすみれが一緒になることは永遠にありえないだろう、と。

 既に同じであるものとこれ以上一つになることはできない。孤独と拒絶のように。

 …いやー、なんかだいぶ野田秀樹の「半神」に乗っかって書いた感じもしますねぇ(汗。

 でも、「半神」では孤独を切り離された双生児と見立ててたけど、今回その片割れを見つけて、しかも切り離せないことになった(くらぽーの中だけですが)んだから新しい発見でした。いつか自分の作品にも生かしてみたいものです。

 でもやっぱりこれはシャム双生児というより入れ子になってるのかなあ。すごく実験的な感じもします。

 ただ、なんていうか、村上春樹はプルーストみたいに遡っていくのがお好きなようで、行き着く底に最愛の人がいるみたいですね。

 やっぱり男性には生涯のマドンナというべき存在が必要なんでしょうか(ある意味寅さんはドンファン?)。女にだってあってもおかしくはないけど、あんまり聞きませんもんねえ(^_^;)

 そうは言ってもこの主人公の男の子は、春樹さん自身なのかわからないですけど、こういうタイプ、嫌いじゃありませんよ。でも付き合うのは無理かな。なるたけ好きにはなりたくないな。先輩くらいだと嬉しいかも。後輩だと逆に危ない気がする(理由は…特にないけど)。

 でも、こーゆー男の子って、結論的には好きな子とは寝ないん(以下略

 記憶に残る一言:
 「それがすべてのものごとの始まった場所であり、(ほとんど)すべてのものごとが終わった場所だった。」

 「世界のたいていの人は、自分の身をフィクションの中に置いている。(略)それは現実の荒々しい世界とのあいだに置かれたトランスミッションのようなものなんだよ。」

「それ以来猫は一匹も飼っていない。(略)あの松の木に上ったきり帰ってこなかった哀れな子猫を、わたしにとっての唯一の猫にしようとそのときに決めたの。」

「でもしかたないわね。すてきなことはみんないつか終わるもの」

 「わたしたちは素敵な旅の道連れであったけれど、結局はそれぞれの軌道を描く孤独な金属の塊に過ぎなかったんだって。(略)ふたつの衛星の軌道がたまたまかさなりあうとき、わたしたちはこうして顔を合わせる。あるいは心を触れ合わせることもできるかもしれない。でもそれは束の間のこと。次の瞬間にはわたしたちはまた絶対の孤独の中にいる。いつか燃え尽きてゼロになってしまうまでね」

 「本当はそんなもの、見たくないのかもしれない。本当はぼくはもうなにも見たくないのかもしれない」

 「なにが正しいことなのかわたしにはよくわからないのよ。正しくないのがどんなことか、それはわかるわ。でも正しいことって何?」


 「すべてのものごとはおそらく、どこか遠くの場所で前もってひそかに失われているののかもしれない(略)少なくともかさなり合うひとつの姿として、それらは失われるべき静かな場所を持っているのだ。ぼくらは生きながら、細い糸をたぐりよせるようにそれらの合致をひとつひとつ発見していくだけのことなのだ。(略)ぼくらは同じ世界の同じ月を見ている。ぼくらはたしかにひとつの線で現実につながっている。ぼくはそれを静かにたぐり寄せていけばいいのだ。」


posted by くらぽー at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 読んだ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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