2008年02月21日

まじめに国語教育について考えてみた。『国語力をつける勉強法』『はじめての国語』

 前者はかの和田秀樹、後者は清水義範(+西原理恵子)。同じように国語の勉強について書いているのだが、明らかに東大の優等生らしい本と、一般受けしそうな対照的な本だった。
 というか『国語力〜』に書いてあることは中学受験したものからすればそんなの当たり前、な世界で、ある意味特に目新しいことが書いてあったわけではない。
 『ドラゴン桜』にしても、まさに自分が辿った道が書いてあるようで、つまり和田秀樹の『受験は要領』、ただそれだけを逐一詳しく説明してくれている実践編だ。
 社会人の国語力をつける勉強法としても有効だから、アマゾンなんかの書評では概ね好評みたいだ。

 でまあ、どこを読めばいいのかというのは目次を見れば一目瞭然。
 まさに“国語力をつける勉強法”という章がある。はっきり言ってこれだけでもいいと思う。(和田氏も斜め読み、飛ばし読みは勧めている)
 なぜならこれを一つの論文と捉えた時にそれ以前の章はどれも導入・話題提示であるからだ(根拠といえなくもないが)。
 とにかくここで言っていることは
 文法・語彙・論旨の把握/要約・レポート作成力
 この4つのテクニックを磨くことで国語力ってのは飛躍的に伸びるのだと、そういうことらしい。

 ただやっぱりわが子を“負け組”にさせないために、“勝ち組”にするために、という動機を持つ親のための本、という意味も感じてげんなりとなった。くらぽーが東大生に偏見を持つのはまさにこの部分である。
 東大は“勝ち組”であるという論理。根拠はどこからくるんだろうね?
 このままでは“負け組”になってしまうという危惧を持たせる、それで確かにこの本は売れるわけだが、みんながみんな“勝ち組”になれるわけではないのでね?

 以前イソップ物語「アリとキリギリス」のパロディで、ある日アリの巣が崩されて、アリも放浪しなくてはいけなくなって、自活しているキリギリスにサバイバル術を教えてもらう、という話を聞いたことがあった。
 でも、実際の世界はそれよりもっと厳しくて、きっとキリギリスでも運のいい奴しか“勝ち組”にはなれないようになっていると思う。それか絶対崩れない巣の女王アリか。


 あとひどかったのは受験勉強を子ども全員にさせるべきだという主張。
「親が意識しなければいけないことが一つある。それは子どもを教養人や文化人に育てるための環境づくりである。」
というまあ現代版「孟母三遷」というやつですね。
「たとえば、テレビを好んで見ている家庭と、読書好きの家庭を比較すると、明らかに文化レベルに差がある。(中略)極端な事を言えば、『友達がみんな見てるから』と言って子どもがテレビのバラエティ番組を見たがったら、『そういう友達とは付き合わないほうがいいんじゃないの』というくらいのことをはっきり言った方がいい。」
 全く余計なお世話である。というより、むしろ東大生はやっぱり周りと自分はレベルが違う、と見下しているという偏見を助長しかねない発言である。自ら敵を作ってどうするのだろう。
 子どもにとっての社会は友達なのであり、本じゃないはずだ。しかも、読書好きの家庭って、家帰ってもみんな黙って本読んでるのか。気持ち悪い。みんなでバラエティ見て笑ってる方が会話も弾むってもんだろう。
 一応「世界一受けたい授業」は教養番組として教育に使えるからOKになっている。また実際、知識を問うような「ガリベン」「雑学王」なんかのクイズ番組が増えていて、テレビも少し役に立つことをしなければと思い始めているのかもしれない。

 それから、「過保護は本当に悪いのか?」この話は、小論文の書き方に則って言えば、悪いと書くよりも良いというあえて少数意見を書いた方が目立つしポイントが高い、という逆説論法(テクニックの一つ)かなーと思えなくもなかったが、どのみち「子どもをうまくコントロールするために」というスタンスにおいての「過保護」ならば是非を問うまでのことはない。
 おー、バッサリ切ってスッキリした。

 さて、一方の『はじめての国語』だが、やはりこちらこそスペシャリストというべきだろうか、サクサク読めて非常に楽しめた。『国語力〜』に対する疑問がここに集約されていると言ってもいい。
 実は清水義範は国語の教員免許を持っていると、冒頭でばらして?いる。つまり和田秀樹のように国語を単なる手段ではなく、目的として一応勉強した人だ。
 でもこの本ではあっさりと、「国語についての雑談風エッセイ」にすると言い切っている。つまり批判の矛先を避けようといている(笑
 なのでこちらはまあ思ったことについて書いてみよう。
 まず、小学校で国語の勉強は何をしたか、について書いてある。例えば漢字の練習。十回ずつ「月 月 月・・・」と書いている(『国語力〜』における反復)うちになぜこれが「ツキ」なのか、「本当にツキという漢字だったっけという気がしてきて」自信がなくなり、果ては「自分はただ無意味なマークを書き写しているだけではないか、という不安」にまでいたるというくだりはまことに子どもの気持ちをうまく描写している。ここでこんな疑問を持たない子どもだったのなら、あっさりと「国語力をつける勉強法」のように受験に向かっていけばそれなりにいいところまで行けるんだろう。
 が、大体子どもというものは反復がきらいだし飽きてくるのが普通だと思う。国語の教育がうまくいかない第1の問題というところか。ひらがなカタカナ漢字とややこしすぎるんだよね日本語は。

 それから、国語が「いつの間にか人間学の科目になっている」という指摘。これは非常に痛かった。それよりは事実が書かれている部分を正しく理解することが大切だろう、と。(そこに賛成しようとは思わないんだけど)
 読書感想文など心情読解には価値を置かない『国語力〜』と共通しているのはこの部分だが、「感覚的なルール」や「気分的な教科」というイメージはまさしく国語が苦手な理由の第一位だろう。
 教師が「読んだ感想をある方向に導こうとする」というのも、確かに不条理だ。「感想はこうでなければ×、というような教育」、これは
確かにやっちゃあいけないだろう。
 「感想をリードする」、「つまり、思想をリードする」ことへの「違和感」は恐らく多くの子どもが持っているはすだ。だから、国語教師としては矯正するようなこと、「立派で正しいことばかりを押しつけてくる」というのはまずいんじゃないかと思う。
 国語が「思考力を育て」「言語能力を高め、人間理解を深め、世界観を確立させ、社会性まで身につけさせよう」という高度な目的であるがゆえに「とんだ方向違いに流れがち」なのだという意見も納得できる。

 特に、「文学的感性の教育になりがちである」「論理性や合理性はなく、考えても無意味だと感じさせてしまう」という部分や、「子どもに、大人好みの感じのいい子のふりを強要しがちである」という部分。

 前者はとても身につまされる。「文学高感度の人」が教師となる場合には、なぜそこで子どもが心情を読み取れないのかが逆にわからなくて、センスの問題に片付けられてしまっているからだ。そして「学問的思考力とは関係ないような気がし」てしまったら、その子は国語の勉強を諦めてしまうんじゃないか、とか。「教えるべきことが高度すぎるので、考え方を指導しきれないのである」とフォローはしてもらっても、それは由々しき現実問題である。
 それから後者は、「子どもを世情にたけたおませ(和田氏いうところの『ハイレベル』?)に導こうとする傾向もある」というように、いい子のふりをさせてしまう、いやそうやって偽善を子どもに教えてしまうのではないだろうか。
 実際、和田氏のお嬢さんとその友達は大人のいるところといないところでは言葉を使い分けているそうだし(敬語って、つまり表の顔を裏の顔を作る第一歩っていう認識がここで初めて生まれたよ…)。

 でも実際は、国語の問題のこういうところが難しいっていう箇所については全然共感できなかった…。国語で難しいと思ったことない(古文単語の意味を知らない時は別)だったもんで(爆
 だって、指摘されている通り「問題文を読まない方が、かえって正解の予想がつく」というのはペーパーテストの問題に関しては間違いじゃないのだから。

 だから結局は国語の問題にはルール(この中では「トリック」と揶揄)があって、それを見抜けば“お利巧ちゃん”になれるというのが日本の国語の現状なわけだ。
 実際、清水氏が「国語の試験に喧嘩を売っている」小説『国語入試問題必勝法』でさえ国語の試験に使われている。
 おまけにその設問に、作者自身が答えられない、というよりも、「この中に適当なものはない」とまで言われてしまっている。国語がいかにフィーリングの問題かと言うことが露呈されてしまっている…(笑

 あと、「読み書き」に対して「話す事・聞く事」の大切さ、について述べられて?いる。とはいうものの、和田氏からすれば読み書きができなければ話す事も聞くこともできないという論が出てきたが、それがお門違いということがくらぽー自身を見ていればわかる。
 読み書きが人より多少優れていようが、話す事も聞く事も、コミュニケーション能力の一切が人より劣っている。それで、大体そういう子は友達ができにくい。自己アピールができないからだ。友達が多い子っていうのは、話すのが上手で、聞くのも上手で、話題が豊富だから。本から得た情報なんて、友達との会話にどれほど必要なものか。くらぽーの人生の大半は病院か家だから、話す事も聞く事も普通より少なかったのだと思う。(違うな、一人だけ一方的に喋ってる蛙はいた)
 話す事や聞く事は、とにかく聞いたり話したりすることから始まるのだと思うが、単なるおしゃべりとの違いとして、(和田氏のレポートじゃないが)短いスピーチをする機会を授業に取り入れないといけないんだと思う。
 ここで挙げられていたのは例えば小学校1年の子でも「学校から家に帰るまでに何があるか」ということなら誰だってできるだろう。

 また、文学的感性の鋭い国語教師とはいえ、ある教育プランの中には「尋ねたり応答したりすること」や「友達の話をきくこと」なんて書いてあって、実践にはとんと弱い人たちばかりなのだなあと思う。もっと具体的に!面白いことじゃないと子どもは飛びつかないだろー。
 清水氏の「お父さんにおみやげをねだる時の話し方」や「お店で値切る時の話し方」まで行ってしまうとさすがに、教育的にはどうなのかと思うけど(それぞれの家庭の問題にまでなりそうだし)
 また、国語教師たちの言葉の曖昧さ(上の論文のは項目だからまとめているにしてもちょっと適当すぎ)にも疑問が残る。これは普段の話し方にも通じるらしい。
「学校の先生と言うのは、一般社会で会話をすると、喋りかたが変である」と『はじめての国語』でも批判されているが、全くその通り(だって井戸は教師率高かったから)。「ひとに何かを依頼するような時に、並のサラリーマンならできて当然の、へりくだった依頼言葉が使えない」のは、ひとえに「社会を知らない」上に、「子どもと同僚としか
接していないから」。「ちゃんとした大人の会話ができやしない」教師たちが、「話す事、聞く事の教育をしなければならないのだから大変だ。」


 ま、2冊に共通して言えることは、国語教育こそ日本の教育の根幹なんだから、けっして疎かにしてはならない、という結論でしたね。
 読んだ順番としては成功だったんだろうか?『はじめての国語』から読んでたら、『国語力〜』はむかついて読み切れなかったかもしれない(笑)


posted by くらぽー at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 読んだ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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