2010年04月21日

男と女の間には「人形の家」

「青空文庫」に入ってました。

 なんだかノラが知ってる人妻にすごくに重なって(世間知らずで短慮な性格とかも)しまって…というか、普遍的な夫婦(男女)のすれ違いがリアルにあぶり出された作品だと思った。
 「新しい女性」ノラの登場はフェミニズムの台頭に一役買ったようですが、この作品が最初に世に出た時から数えて(1879年!)も、現代のガラパゴスである日本ではなんとも古びないテーマ。(要するに根本はあまり何も変わってないってことか?)この二人が本当に夫婦となれる「奇跡」は起こるのか…。

 もはや古典でもあるようだけど、現代のドイツの劇団や宮沢りえの舞台でも記憶に新しいところです。(でも観てない)

 あと、読んでいて感心したのは、登場人物すべてに二面性があったというとこでした。ノラと夫ヘルマー、友人クリスチナ・リンデン、ヘルマーの友人ランク医師、クログスタット(とリンデン)、多分それぞれ1対1の会話があるから複雑な関係性も出てくるのだろうけど。
 夫婦でも、今まで知らなかった一面を見てしまうと、あーもうアウトだなって感じになったりね。
 ノラの隠し事(それを密かな自慢にしているノラもどうかと思うが)を知った時の夫の言動と、大事が収まるとわかった時の変貌ぶり(というか本性?)にはノラでなくてもああ?となるばかりです。

 幻想で成り立つ夫婦は、脆いね。


 以下は軽くネタバレ☆



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2009年04月21日

黎明の豊饒『四万十川』(あつよしの夏)

 イメージをうまく言い表せないけど、思春期前の物心がつく幼少年時代を、人生の黎明期と捉えられないだろうかと思って。解説によれば、「きっと私たちは、思春期と呼ばれるあの一個の暗澹を通過することによって、それ以前の無数の生(注:リルケの言葉による、しかしここは「命」か「生命」の方が適切な訳ではないか)を忘れ去るように出来ているのであろう」とある。でも実際、くらぽーは思春期よりもそれ以前の小学校時代の方をよく思い出せる気がするのだが。


 昔、ベネッセの教材でこれが出た時、コロバシ漁の部分しかなくて、何が面白いのかちっともわからなかった。あの引用部分はひどかった、この物語のいい部分がちっとも引き出されてなかった点で。少年の瑞々しい成長の話、とは本当に一言で言いたくない、大切なものを思い出すための物語だ。

 猫が出てくるのも1つは大きいかも知れない。子猫の描写や、それに関わる篤義の家族の様子など、ここに描かれている「愛情(エフェクション)」がとてもいとおしい。特に、クラスでいじめられている少女の話題が出た時の、母親との会話がいいと思う。説教ではなく、子どもにちゃんと自分の意見を言わせているからだ。
 これも映画にはならないのだろうか、すぐ考えてしまう。この本を知らずに生きていくのは人間として恥ずかしいとさえ思う。

 兄の和夫の言葉が、ストレートにささる。
「おまえが、どうしたち(どうしても)、こうせにゃいけん思うがなら、そのとおりにやったほうががええ」
「何でも、入口がおおごと(大変)ながよ」
「今日堪えられたら、あしたも、あさっても堪えられるけん」
「喧嘩せにゃいけんときもあるがぞ。喧嘩せにゃいけんときやらんがは、優しいがじゃないがぞ」
「まけれん喧嘩は、何でもやれ!」

 最後の言葉を、とある集まりに彼の浮気相手も来る事を「(彼女が来ないと)他の人も淋しがるから」と言って自分が過呼吸になっても我慢していた女の子に捧げたい。守らなくてはならないものがある戦いは、正当化されるべきではないのか?勿論、話を国際問題にまで広げるつもりはないけどw


 以下はメモ。

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2009年02月22日

タナトスへの恋『ヴィヨンの妻』

 最近のエントリを読んで、「辛そうな事が多いように感じたんで」というメッセージをもらった。言われてみれば、最近少し加速は落ちたものの、急に狂ってみたくなるとかそういう散文的な「病」がなくならないわけでもなく、別口から「タナトスとかそういうの?」と言われ、原因が何かやっとわかった。
 この本のせい、かも?(キイナ風に)

 こないだ書いた通り、太宰をほとんど読んだことがないのに、今回たまたま手にしたのはなんと最晩年の作品集。文学的総決算、と書かれてますが人生の決算だろー、とツッコミたくなるオイラ、まだまだ大丈夫なはず。タイトルはフランス文学史上で最高の抒情詩人と呼ばれている無頼・放蕩の詩人フランソワ・ヴィヨンから取っているようです。

 この本を通して、常に自分を客観的に、または諧謔的(自虐的?)に描こうとしている太宰の姿が見れた。だって、一人称にすれば、陳腐な言い訳しか出てこない(『父』参照)。しかしなんと古びない作品世界だろう。虚無(ニヒル)な情熱も打ちこわしてしまう奇怪な幻聴に悩まされる『トカトントン』、一見悲惨な家庭から「人非人」でも生きてさえいればと実にあっけらかんと開き直っていく表題作は、神の救いなき時代をまるで先取りしているようだ。実際、表題作は誰かが既に設定を置き換えて短編映画を撮っているのではないかとさえ思われる。

 にしても、読んでいてとても辛いのは『おさん』という作品だった。これは近松浄瑠璃『心中天網島』に出てくる、遊女と浮名を流す夫を情けなく思いながらも甲斐甲斐しく夫を支える良き妻の名前だと調べてわかった。この名前を借りて妻がいながら恋をしたという夫を冷ややかに見ているという設定だけれども、つまりは自分の内なる倫理感との対話だったのだろうかと思う。そして結局は現実世界に生きる妻には、婚外恋愛が革命に似ているという感覚はわからないのだろうというエゴイズムも見え隠れしているように思えてならない。さらに怖ろしいのは、ここに書いたことを、実際に太宰が演じて(実行して)見せたということ。事実関係は良く知らないが、心中することは既に決まっていたのではないだろうか。(まあ何回も失敗してるけど…)

 妻という立場は実につまらんなと思った。相手が帰って来ないなら来ないで、自分も勝手にやっていく、という内縁だか愛人だかよくわからん『ヴィヨンの妻』の方がよっぽどか面白い(現代はもう週末婚というのもあるわけだけど)。いや、さらに言えば、くらぽー自身は多分家庭を守るのではなくて、常に革命を希望する無頼でいたい気持ちの方がよりわかるのだ。でも倫理感が強いと、自分が居ない方がすべてうまく回るんじゃないかと思ってしまう(そして実際そうだと思う)。太宰を縛っていたのは家庭ではなく自らの倫理感。それがある人間は、革命など起こしてはならないのだと思いながら、落下していく時の浮遊感はまた怖ろしく甘美な麻薬である。女に比べて、男の方がロマンチックなのだ。そして、くらぽーは男の気持ちの方がわかるような気がする…。
「曰く、家庭の幸福は諸悪の本」とまでは思わないけども。(だってこれも言い訳くさい)

 あ、体重は、あと3〜5キロは痩せたいと思っていた3年前と比べて7キロだから、そんなに心配することではないでしょう。

 あとは、例によってメモ。

「正しい人は、苦しい筈が無い。(略)世の中を立派に生きとおすように生れついた人と、そうでない人と、はじめからはっきり区別がついているんじゃないかしら」(『おさん』)

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2009年01月06日

去年読んだ本

 主に年末にかけて読んだもの。仕事用が多かった。やっぱり買わないといけないものも多いので、備忘録。

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2008年06月16日

美の黙示録『美の呪力』

 読みながら、志麻子ねーさんもこれを読んでたのだろうかと思った。表現や考え方に共通点が多いのだ。土俗的・未開・未明の暗闇を取り上げるとことか。芸術家はいつだってそうだ。ニセモノの天国よりホンモノの地獄を崇める。だから、空に空しさを覚えてみたり朝に絶望してみたりする。

 やたら理解困難な表現は出てくるけど、岡本太郎の言ってることは一貫している。死に相対し、怒りながら自己の中の絶対(他)者と向かい合う(無目的的にすべてに「ノー」と言い運命に挑む)時、矛盾を超えて世界をつかみとる事ができ、人間は人間になれる。そんな感じ。論理じゃない。感じないといけない。
 聖は俗で、俗が聖。中世以前の人間の生活の営み(祭礼や儀式の呪術)の中にこそ真の芸術がある。優雅でありながら野蛮。静謐の中にこそ激情が迸る。怒りながら心の中で笑っている。真剣でありながらどこか他人事のように遊んでいる。

 なんというか、最近の危ない思想で事件を起こす前にこれを読んでみたらどうだろう。その通りだと思って実行しないように。昔、中学の美術の先生が言うには、授業で好きな作品を作ることになった時「爆発」発言に則って火炎瓶を作ろうとした生徒がいたそうな…。

キーワード:矛盾(二重性)、透明、怒り(憤り、爆発)、宇宙(世界)、ノーブル(高貴)、傷口

(岡本太郎)


 以下は個人的覚書みたいな感じ。

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2008年04月13日

主夫作家の原点『新しい歌をうたえ』

 これはエッセイ集だから、一口に言うことができない。ただ言えることは、なんとなくまた読みたくなって、図書館で借りたことを非常に後悔した本だということ。
 作家として、人間としていろいろ興味がつきない人。『リング』や『らせん』は映画で有名になって、ホラー映画は嫌いだから観たわけじゃなかったけど、ドラマ版の『リング』はちょっと観て、単なるホラーじゃない、テーマがしっかりした作品だとは感じていた。

 何よりすごいのは、超ポジティブ思考で、主夫であり良き父親である(あろうと奮戦してる)ところ。自分ができるからって、周りの男性に勧めても無理かも知れないが、こういう男性が周りにいたら楽しいだろうなあとは思う。

 解説が意外?にも宮台真司だった。武闘派というのはしらなかった。小賢しい御託を並べるよりも、実行できる方が人間的にすごいと思う。
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2008年03月19日

『世界の終わりという名の雑貨店』

 なんつうか、中二病。麗しい言葉で埋め尽くされたラブレター。これに比べれば『世界の中心で愛を叫ぶ』とかどうでもいいです。(読んでもないけど)
 京都が舞台になっているせいか、すぐ近くで起こりそうな感じ。四条河原町とか、木屋町なんて、もしかしたらすれ違うくらいしてたかも…?と思うくらい。
 とにかくストーリーは陳腐で感性に頼りがちで独り善がりなところもあるけど、びっくりしたのは、服を着ることに存在価値を見出す世界がある、ということを初めて納得させてくれたのです。
 Vivienne Westwoodは、あまりよく知らなくて、ゴスロリというのも実際よくわかってなかったと思うんですが、言うなれば、コスプレではなく、本当に、「矜持」、あるいは「生まれながらの」孤独な「戦士」のみが着ることを許される「甲冑」というイメージがVivienne Westwoodにできました。

 少女の言葉にいちいち共感してしまうのは、そういう風に書いているからなのでしょうが、ちょっとカタルシスもあるような、そしてまた大槻ケンヂの『くるぐる使い』が読みたくなるような、そんな本でした。

 だって、ここでもやっぱり男は勝手で、「臆病で狡猾」なんです。僕の一人称ですべてが語られている辺り、叙述のトリックとも言えそう。本当に愛はあったのか?

 まあ、解説に述べられているように、「引き裂かれた魂の双子の再会」というのがずっとこの作家の主題のようです。『スプートニク〜』でくらぽーが展開した話に似てるかも。それは同じく表題作『ミシン』にもありました。でもここでやはり興味深いのは、「人生とは片割れとしてのもう一人の自分を探すための、飽くなき自己同一化の旅」であり、「恋愛とは詰まるところ自己愛であり、自意識の問題へと還元される」ということならば、いつも相手が最後には死ぬので、自己同一化はそこで完遂されているのか、それともまたさらなる分身を求めて放浪を続けるのか・・・。主人公は多分半身を失って壊れかけているようですが。


 ちなみにこれ、映画化されています。女の子は高橋マリ子。大学時代の友達に好きな子がいましたね。観てはないですが過激な描写のとこはどうしたんだろうな?続きを読む
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2008年03月16日

愛より強く『ヴァージン・ビューティ』

 まず、読み終わって思ったのは、どこがヴァージン?どこがビューティ?リアルな性の物語、なんて言ってもどこか遠いお話なのはくらぽーが井戸育ちのせいなのか?
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2008年03月04日

恐怖という名の官能、官能という名の戦慄『痴情小説』

 えー、2度目の岩井作品です。短編集です。感想書くのも難しい。ただ、エロい話って読んだらフェロモンつくのかなー、これ読んでる間は目が合う人の(以下略

 岡山弁って、井戸の言葉と割と近いからするする入りますね。自分へのルーツへの複雑な思いも。

 岩井作品によく出てくる言葉は「嫌」「綺麗」「怖い」「懐かしい」「可憐」「罰」。これらは多分すべて故郷に対する同義語。

 一番好きなのは『朱の国』か『碧の玉』、どちらもベトナムが舞台ですね。『朱の国』には阿部進之介さんが似合うと思う。

 そして岩井作品を読むと次には必然的にデュラスが読みたくなります。岩井―岡山・ベトナムとデュラス―インドシナの関係って比較したら面白いんじゃないかなあ。

 それから、昔友達から借りて読んだ『花園メリーゴーランド』。日本の土俗にはどの地方にも同じ淫猥さがあります。『緋の家』の中の台本だけは少し『ジュスティーヌ』っぽかったな。

 ちなみにこれを読んでいる間のBGMはなぜかGO!GO!7188のベスト、特に『神様のヒマ潰し』でした。肉欲と純情、かけ離れているようなのになぜか近くて、志麻子ねえさんも気に入りそうな気がするのはオイラだけでしょうか…。


 以下は覚書。あんまり抜粋したら違法かもなので隠します。続きを読む
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2008年02月21日

まじめに国語教育について考えてみた。『国語力をつける勉強法』『はじめての国語』

 前者はかの和田秀樹、後者は清水義範(+西原理恵子)。同じように国語の勉強について書いているのだが、明らかに東大の優等生らしい本と、一般受けしそうな対照的な本だった。
 というか『国語力〜』に書いてあることは中学受験したものからすればそんなの当たり前、な世界で、ある意味特に目新しいことが書いてあったわけではない。
 『ドラゴン桜』にしても、まさに自分が辿った道が書いてあるようで、つまり和田秀樹の『受験は要領』、ただそれだけを逐一詳しく説明してくれている実践編だ。
 社会人の国語力をつける勉強法としても有効だから、アマゾンなんかの書評では概ね好評みたいだ。

 でまあ、どこを読めばいいのかというのは目次を見れば一目瞭然。
 まさに“国語力をつける勉強法”という章がある。はっきり言ってこれだけでもいいと思う。(和田氏も斜め読み、飛ばし読みは勧めている)
 なぜならこれを一つの論文と捉えた時にそれ以前の章はどれも導入・話題提示であるからだ(根拠といえなくもないが)。
 とにかくここで言っていることは
 文法・語彙・論旨の把握/要約・レポート作成力
 この4つのテクニックを磨くことで国語力ってのは飛躍的に伸びるのだと、そういうことらしい。

 ただやっぱりわが子を“負け組”にさせないために、“勝ち組”にするために、という動機を持つ親のための本、という意味も感じてげんなりとなった。くらぽーが東大生に偏見を持つのはまさにこの部分である。
 東大は“勝ち組”であるという論理。根拠はどこからくるんだろうね?
 このままでは“負け組”になってしまうという危惧を持たせる、それで確かにこの本は売れるわけだが、みんながみんな“勝ち組”になれるわけではないのでね?

 以前イソップ物語「アリとキリギリス」のパロディで、ある日アリの巣が崩されて、アリも放浪しなくてはいけなくなって、自活しているキリギリスにサバイバル術を教えてもらう、という話を聞いたことがあった。
 でも、実際の世界はそれよりもっと厳しくて、きっとキリギリスでも運のいい奴しか“勝ち組”にはなれないようになっていると思う。それか絶対崩れない巣の女王アリか。


 あとひどかったのは受験勉強を子ども全員にさせるべきだという主張。
「親が意識しなければいけないことが一つある。それは子どもを教養人や文化人に育てるための環境づくりである。」
というまあ現代版「孟母三遷」というやつですね。
「たとえば、テレビを好んで見ている家庭と、読書好きの家庭を比較すると、明らかに文化レベルに差がある。(中略)極端な事を言えば、『友達がみんな見てるから』と言って子どもがテレビのバラエティ番組を見たがったら、『そういう友達とは付き合わないほうがいいんじゃないの』というくらいのことをはっきり言った方がいい。」
 全く余計なお世話である。というより、むしろ東大生はやっぱり周りと自分はレベルが違う、と見下しているという偏見を助長しかねない発言である。自ら敵を作ってどうするのだろう。
 子どもにとっての社会は友達なのであり、本じゃないはずだ。しかも、読書好きの家庭って、家帰ってもみんな黙って本読んでるのか。気持ち悪い。みんなでバラエティ見て笑ってる方が会話も弾むってもんだろう。
 一応「世界一受けたい授業」は教養番組として教育に使えるからOKになっている。また実際、知識を問うような「ガリベン」「雑学王」なんかのクイズ番組が増えていて、テレビも少し役に立つことをしなければと思い始めているのかもしれない。

 それから、「過保護は本当に悪いのか?」この話は、小論文の書き方に則って言えば、悪いと書くよりも良いというあえて少数意見を書いた方が目立つしポイントが高い、という逆説論法(テクニックの一つ)かなーと思えなくもなかったが、どのみち「子どもをうまくコントロールするために」というスタンスにおいての「過保護」ならば是非を問うまでのことはない。
 おー、バッサリ切ってスッキリした。

 さて、一方の『はじめての国語』だが、やはりこちらこそスペシャリストというべきだろうか、サクサク読めて非常に楽しめた。『国語力〜』に対する疑問がここに集約されていると言ってもいい。
 実は清水義範は国語の教員免許を持っていると、冒頭でばらして?いる。つまり和田秀樹のように国語を単なる手段ではなく、目的として一応勉強した人だ。
 でもこの本ではあっさりと、「国語についての雑談風エッセイ」にすると言い切っている。つまり批判の矛先を避けようといている(笑
 なのでこちらはまあ思ったことについて書いてみよう。
 まず、小学校で国語の勉強は何をしたか、について書いてある。例えば漢字の練習。十回ずつ「月 月 月・・・」と書いている(『国語力〜』における反復)うちになぜこれが「ツキ」なのか、「本当にツキという漢字だったっけという気がしてきて」自信がなくなり、果ては「自分はただ無意味なマークを書き写しているだけではないか、という不安」にまでいたるというくだりはまことに子どもの気持ちをうまく描写している。ここでこんな疑問を持たない子どもだったのなら、あっさりと「国語力をつける勉強法」のように受験に向かっていけばそれなりにいいところまで行けるんだろう。
 が、大体子どもというものは反復がきらいだし飽きてくるのが普通だと思う。国語の教育がうまくいかない第1の問題というところか。ひらがなカタカナ漢字とややこしすぎるんだよね日本語は。

 それから、国語が「いつの間にか人間学の科目になっている」という指摘。これは非常に痛かった。それよりは事実が書かれている部分を正しく理解することが大切だろう、と。(そこに賛成しようとは思わないんだけど)
 読書感想文など心情読解には価値を置かない『国語力〜』と共通しているのはこの部分だが、「感覚的なルール」や「気分的な教科」というイメージはまさしく国語が苦手な理由の第一位だろう。
 教師が「読んだ感想をある方向に導こうとする」というのも、確かに不条理だ。「感想はこうでなければ×、というような教育」、これは
確かにやっちゃあいけないだろう。
 「感想をリードする」、「つまり、思想をリードする」ことへの「違和感」は恐らく多くの子どもが持っているはすだ。だから、国語教師としては矯正するようなこと、「立派で正しいことばかりを押しつけてくる」というのはまずいんじゃないかと思う。
 国語が「思考力を育て」「言語能力を高め、人間理解を深め、世界観を確立させ、社会性まで身につけさせよう」という高度な目的であるがゆえに「とんだ方向違いに流れがち」なのだという意見も納得できる。

 特に、「文学的感性の教育になりがちである」「論理性や合理性はなく、考えても無意味だと感じさせてしまう」という部分や、「子どもに、大人好みの感じのいい子のふりを強要しがちである」という部分。

 前者はとても身につまされる。「文学高感度の人」が教師となる場合には、なぜそこで子どもが心情を読み取れないのかが逆にわからなくて、センスの問題に片付けられてしまっているからだ。そして「学問的思考力とは関係ないような気がし」てしまったら、その子は国語の勉強を諦めてしまうんじゃないか、とか。「教えるべきことが高度すぎるので、考え方を指導しきれないのである」とフォローはしてもらっても、それは由々しき現実問題である。
 それから後者は、「子どもを世情にたけたおませ(和田氏いうところの『ハイレベル』?)に導こうとする傾向もある」というように、いい子のふりをさせてしまう、いやそうやって偽善を子どもに教えてしまうのではないだろうか。
 実際、和田氏のお嬢さんとその友達は大人のいるところといないところでは言葉を使い分けているそうだし(敬語って、つまり表の顔を裏の顔を作る第一歩っていう認識がここで初めて生まれたよ…)。

 でも実際は、国語の問題のこういうところが難しいっていう箇所については全然共感できなかった…。国語で難しいと思ったことない(古文単語の意味を知らない時は別)だったもんで(爆
 だって、指摘されている通り「問題文を読まない方が、かえって正解の予想がつく」というのはペーパーテストの問題に関しては間違いじゃないのだから。

 だから結局は国語の問題にはルール(この中では「トリック」と揶揄)があって、それを見抜けば“お利巧ちゃん”になれるというのが日本の国語の現状なわけだ。
 実際、清水氏が「国語の試験に喧嘩を売っている」小説『国語入試問題必勝法』でさえ国語の試験に使われている。
 おまけにその設問に、作者自身が答えられない、というよりも、「この中に適当なものはない」とまで言われてしまっている。国語がいかにフィーリングの問題かと言うことが露呈されてしまっている…(笑

 あと、「読み書き」に対して「話す事・聞く事」の大切さ、について述べられて?いる。とはいうものの、和田氏からすれば読み書きができなければ話す事も聞くこともできないという論が出てきたが、それがお門違いということがくらぽー自身を見ていればわかる。
 読み書きが人より多少優れていようが、話す事も聞く事も、コミュニケーション能力の一切が人より劣っている。それで、大体そういう子は友達ができにくい。自己アピールができないからだ。友達が多い子っていうのは、話すのが上手で、聞くのも上手で、話題が豊富だから。本から得た情報なんて、友達との会話にどれほど必要なものか。くらぽーの人生の大半は病院か家だから、話す事も聞く事も普通より少なかったのだと思う。(違うな、一人だけ一方的に喋ってる蛙はいた)
 話す事や聞く事は、とにかく聞いたり話したりすることから始まるのだと思うが、単なるおしゃべりとの違いとして、(和田氏のレポートじゃないが)短いスピーチをする機会を授業に取り入れないといけないんだと思う。
 ここで挙げられていたのは例えば小学校1年の子でも「学校から家に帰るまでに何があるか」ということなら誰だってできるだろう。

 また、文学的感性の鋭い国語教師とはいえ、ある教育プランの中には「尋ねたり応答したりすること」や「友達の話をきくこと」なんて書いてあって、実践にはとんと弱い人たちばかりなのだなあと思う。もっと具体的に!面白いことじゃないと子どもは飛びつかないだろー。
 清水氏の「お父さんにおみやげをねだる時の話し方」や「お店で値切る時の話し方」まで行ってしまうとさすがに、教育的にはどうなのかと思うけど(それぞれの家庭の問題にまでなりそうだし)
 また、国語教師たちの言葉の曖昧さ(上の論文のは項目だからまとめているにしてもちょっと適当すぎ)にも疑問が残る。これは普段の話し方にも通じるらしい。
「学校の先生と言うのは、一般社会で会話をすると、喋りかたが変である」と『はじめての国語』でも批判されているが、全くその通り(だって井戸は教師率高かったから)。「ひとに何かを依頼するような時に、並のサラリーマンならできて当然の、へりくだった依頼言葉が使えない」のは、ひとえに「社会を知らない」上に、「子どもと同僚としか
接していないから」。「ちゃんとした大人の会話ができやしない」教師たちが、「話す事、聞く事の教育をしなければならないのだから大変だ。」


 ま、2冊に共通して言えることは、国語教育こそ日本の教育の根幹なんだから、けっして疎かにしてはならない、という結論でしたね。
 読んだ順番としては成功だったんだろうか?『はじめての国語』から読んでたら、『国語力〜』はむかついて読み切れなかったかもしれない(笑)
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2007年08月06日

周辺というキーワード『異文化トレーニング』

にぶち当たった。前からどうも気になっていた。コミュニケーション論では、ある文化と他の文化のどちらにも属さないもののこと。タイトルは購読テキストの一つで、講義終わっても読んでいた本です。


 なんとなく自分の立ち位置を把握出来た感じ。

 acculturation(文化変容、他文化を身に付けていくこと)の過程の中で、大別すると4つに分かれるとBerryという人が論じていた。これをコミュニ論の先生に、ある国に移住した4人家族を例に説明してもらった。
 一つは統合integration。その国の企業で業績を出し同僚ともうまく付き合い、一方同郷のコミュニティーでも役員みたいなことをしている父。
  次に同化assimilation。現地の学校に入り友達は現地人が多くほとんど母国語を話さない娘。
 それから分離separation。専業主婦で母国語を話し同郷の人とは付き合えるが移住先には溶け込めない母。
 最後に周辺化marginalization。現地の学校では外国人だからといじめられ勉強も追いつかず、母国文化さえ馴染めない息子。他の例を出すなら『ポーの一族』のエドガーはどうだろう。吸血鬼に嫌悪感を持ちながら人間にも戻れない。そういえば萩尾望都も『マージナル』って漫画描いてたよね。

 くらぽーもなかなか人間に混じれないので、たまに井戸にずっといた方が良かったのだろうかとまだ思うことがある。周りと比べてどうして人並みになれないダメ人間なのかと自分を責める時がある。
 昔はさらに井戸の狭さを憎んだ。そこから出られない自分も嫌だった。だけどランボーのように、15の時にはここから飛び出してやるのだと気持ちだけはいっちょまえだった。

 今だって、周辺の一つの形態・非コミュなわけだし。
 でも非コミュも、コミュニケーション取りたいのに上手く取れないジレンマに苦しむ人と、取れないことにさえ気づいていない、という線引きは確実にあるわけで。

 周辺を救う方法はあるのだろうか?非コミュを論じる人たちには既に、非コミュというのは既にコミュニケーション不全が当たり前の状態なので、一般社会の少数派のように連帯は無理であるとされていた。

 となるとやはり、まず自分たちが周辺とカテゴライズされることを疑わなければならないんじゃないか。

 自分のアイデンティティをどこにも属さない一つの新しいジャンルにしてしまうこと。ある意味での自分中心主義であると。そうすれば僻む必要はない。最近女子にも「私というブランド」なんて言葉が広まっているが。
 とすると、非コミュの中でジレンマを抱えた人はだいぶ楽になるんじゃないだろうか。まず考え方をシフトするのが課題だけど。
 あっちが主流とか思わなきゃいいんであってさ。それがどうしたんや、わしはわしじゃ、みたいな、うん。ランボーだって当時の詩人の中ではやっぱりカテゴリーしにくいし、その後の人生もちょっと独特。
 だからと言って自分が主流だと言っていいわけではない。他の人にはなるべく迷惑をかけないように、相手も自分も楽しめる関係を持つ。


 この考え方は友人から学んだ、自分が楽になる考え方、っていうのと最初から自分の個性を出しといた方が付き合う人間を選ばなくて済むって話、もう一つこの本にあったwin-winの考え方を取り入れたもの。
 まあ価値観も多様化してるハズ?の現代社会で先程の4つのタイプ分けは時代遅れ(7年前のだし!)かもしれないけど、もしかしたら逆に深い所で進行してるのかも。学校なんて特にさ、いろんなグループあるけど一人なんてグループじゃなくて孤立っていうんじゃん。

 基本的には高校を卒業して、いろんなグループと繋がりを持つことが出来るようになって初めて自分というジャンルが確立出来るのかも。少なくとも自分はそう。だからもう学校時代は戻りたくないな。
 そういえば、そんな友達もいた。いろんなコミュニティーに顔を出して、友達がいっぱい?いた。でも基本的には一人の人だった。そりゃいろんなとこ行くのに誰かと一緒なんて大変だし。普通ならあの人はどこら辺の人と仲良いよね、とか言えるのがその子については言えない。オイラの知らないグループとも付き合ってたし。


 だから、自分のことを他人にカテゴライズされることにまずNoと言おう。最近お気に入りのAvril Lavigneにもこんな歌詞があった。

Like it or not even though she's a lot like me
We're not the same

 友達だって、まるっきり似たタイプなんていない。波長が合うってことなんだ。オタクだって、鉄道オタクとアニメオタクの話が合うだろうか。でもオタク系の性格?らしき物は存在するなぁ。だからこれも自分がオタク性格だと自他ともに認める人と、気づいていない人に分かれるのかもね。
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2006年10月10日

歌がつなぐ記憶「八重子のハミング」

 これを読んでしばらく経ってしまいましたが、やはりとても印象に残る作品でした。「老いと病気をどう向き合うか」、現代の大テーマの一つですね。「現代の『智恵子抄』」と帯には書かれていましたが、まあかなり影響というか意識して書かれているような気もします。なんせ著者は国語の教師だった人だし、若い頃「心酔」していたそうですので、多分にそのようなヒロイズム、ロマンチシズムが至るところに透けて見えることもあります。

 でも、始めに出会ったのはTVの「アンビリーバボー」だったんですよね。そのドキュメントドラマが良くて、キングと観てたんですけど、キングには共感できる部分が強かったみたいです。

 『智恵子抄』というのはご存知の通り突然奥さんが精神を病んで「人間界の切符を持たない」ようになる高村光太郎の実話です。確かにくらぽーも高校の時読んで、感動してしまった記憶があります。特に覚えているのは「東京には空が無いと智恵子は言う」って行でした。言葉少なにしたためられる詩篇に、深い愛を感じます。それに比べてこちらはいささか饒舌な気もしますが、病状記録もかねているのでまあしょうがないですね。で、こちらの奥さんはマダラボケという状況から始まって、アルツハイマーだと診断されます。

 発病のきっかけとなるのがご主人本人のガン発病でした。「お父さんが死んじゃう」ということを口にしていたそうですから、奥さんにはそのことが相当のストレスだったのでしょう。考えてみると、キングの病状も原因は火事とそれに至るまでのストレスだったように思います。

 で、奥さんの変化がつづられていきます。花が好きだった彼女は、家にもよく飾っていました。子どもに帰っていくにつれ、道端の草や花を摘んで家中に飾ります。それが、次第にただじっと座って遠くを見つめる事が多くなり、楽しげに歌っていたかと思うと声を荒げ、持っている物を投げ捨てるようになる。廊下に座り込んで孫たちの絵本をめくり、意味不明の言葉を本と交わし、人形と話す妻。このあまりの変貌にどうしていいかわからなくなる旦那さん。「何よりつらいのは、突然泣き出したり、黙って一点を見つめている時」だと書いています。これは赤ちゃんにもよく見られることだと思いますが、旦那さんは奥さんのことをいろいろ想像してしまうのです。

「妻は本当に幸せだったんだろうか。夢は何だったのだろうか。やりたかったこと、行きたかったところはどこだったのだろうか。妻の思いや願いごとを聞いて、一度でもかなえてやったことがあっただろうか。妻の気持ちに気を配って、その夢の実現に手を貸してやったことがあっただろうか。(略)妻の存在をどのように捉えてきたのだろうか。妻の身になって考えてやったことがあるだろうか」

 実に苦しい自省ですが、時すでに遅しというかなんというか…。こういうことは大体の男性はこういう事態になってやっと思い当たるようで…。そして夫婦の絆も試されるってことですか。

「最後まで妻の記憶に残るものは、いちばん身近に生きている私だろうか、それとも歌だろうか」

 奥さんは歌の好きな人で、アルツハイマーになっても歌だけは忘れませんでした。奥さんは、おむつなどの着替えを手伝う旦那さんを攻撃します。それでも叩かれながらぎゅうっと抱きしめたとき、叩くのをやめた彼女の心には何があったのか。

 そして旦那さんは一つの結論に至ります。「妻は、家族や友人、知人に別れの言葉を告げることなくして、精神寿命を終えてしまったのだ」と。しかしそれではあまりにも悲しい。一つの映画が気持ちを少し前向きにしてくれる。『ユキエ』という、アルツハイマーを扱った映画。「悲しんではいけない、この病気は、家族にゆっくりとしたお別れを与えてくれたんだ」と思い直すことに。

 そしてすべてを家族に打ち明け、一緒に生きていくことを選択します。幼い孫たちもその気持ちを理解してくれます。「ババは赤ちゃんになる病気で、薬はマーちゃん(孫)の胸の中にあるんよ。とっても優しい薬よ」と彼女なりの病気への理解は、シンプルでありながらとても本質的なことだと思います。

 さらに、この旦那さんは結構な不良中年だったらしく、ネオン街でのストレス発散なんかもやっちゃいます。病識と息抜き、この二つが介護の現場には不可欠ですよね、やっぱり。でも若い頃からそんなことして奥さんを心配させてたんじゃないかと思ったりもしますが…。

 やっぱり映画化してほしいなと思った。『ユキエ』観たことないからわからないけど。でも『午後の遺言状』みたいに年配の人も観れる映画が少ないしね。『私の頭の中の消しゴム』は若い人向けだし。寺尾聰主演でいいんじゃないでしょうか。奥さんは誰かな。市原悦子とか?で、若い頃を回想シーンで入れる。萩原聖人と永作博美で。余計な説明とか極力なしで、セリフもほとんどなくて、あの着替えの抱きしめるシーンをやってほしい。のどかな瀬戸内の風景とか入れながら。あ、でも山口だから関門海峡かな?加藤治子・草村礼子・吉行和子や緒方拳・夏八木勲・原田芳雄・橋爪功・山崎努・藤田まことなんかでもいいかも。

 また、章ごとに入っている短歌はよかったです。「ゆっくりと別れの時を待ちつつも 永遠にあれかし 君が玉の緒」もよかったけど、やっぱり一番好きなのは「生きてこそ君とまみゆる日々のあり 君と生きゆく日々はありけり」。夫婦ってこれに尽きるなと思いました。キングもクイーンのことを頑張って面倒みようとしてますけど、それまでがそれまでの二人だったから、うまく行くか少し心配です。
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2006年06月16日

何の数だか知らんが「百」

 まったく偶然でした、ええ。昨日職場で明日の高3の授業用にと思って手にしたセンター試験対策パックの問題。なんていうか、国語教師って実は本屋と同じくらい幸せな仕事かもとか思います(まあくらぽーは英語も頼まれれば数学も歴史も生物もなんですが)。

 なんだかものすごくびっくりした。主人公はたぶん団塊世代のおじさんで、つまり親の世代なのに、なんでこんなに共感できるのか不思議だった。これは人間の性質が世代を超えて共通するものがあるってことなんでしょうね。

 しかも、たぶん小説家、もしくはなんらかの物を作るクリエイターなんて決して老成してはいけない、茨木のり子が言ったみたいに外は牡蠣のように殻があっても、いつまでも内面は思春期のようなナイーブ・不安定な感性を保ち続けなければいけない宿命があるんでしょう。

 どうしても少年のままおじさんになってしまった男のどこか哀しい、乾いた独白です。一冊まるごと読んでないので、とりあえず記録だけしておいて後で探してみます。どうせ今から仕事で返さないといけないし。

 しかし、やっぱり試験問題になる文章は名文が多いね…。


記憶に残る一言:
「一瞬の惑乱の中で、関係のない気持が混在していたろうが、どちらもその片々は記憶しておらず、全体が持つ大きな特長に片寄らせて思っている。」

「私は夜も星もけじめのつかない、夜昼ばかりでなく自分の主体というものにもけじめを失ったまま、浮遊するように生きている。五十年の間、あれこれやってきたことは、ただ伸びひろがって拡散していくばかりで、少しもまとまりがつかない。」

「自分には他人に強制できる権利などないと思っている。けれども、唯々諾々として他人に従がっていることはできない。(略)私の土地を他人に蹂躙はさせない。」

「何があっても私は父親の思うような人間にはならない。たしかに劣等ではあろうが、優等と劣等は本来別系統なので、私のごく個人的な誇りは、お前等にはどうにもならんのだ。(略)ここがさらに煮詰まれば私も死ぬし父親も殺す。父親が早晩死ぬはずの存在だと思いながら、まんざら冗談でもなく殺意も併せ持っていたのはこの点に関してである。」

「父親は、いつまでたっても、死なない。死ぬことを願っているわけではないし、死ななくていっこうにかまわないが、それにしても、死なない。(略)手順や意味などで括って、人生はこういうものだ、などという甘い決着を私が持つことを許さない。偶然であれ、内容がどうであれ、父親の一生はまだ途上で、今生きている以上、果てなく生きると思うほかはない。」

 (作者:色川武大・いろかわたけひろ)
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2006年06月02日

「シナリオの構成」

 いきなりですが、最近のくらぽーの日課はお昼に朝ドラの再放送を観てからすぐ後の「吾輩は主婦である(勝手に略してワガシュフ)」を観ることです。

 なんかその辺のダラダラした主婦みたいですが、これには大事な理由があるのです。このドラマのナレーションを本田博太郎氏がやっているのです!…じゃなくて、この昼ドラは脚本が宮藤官九郎だからです!

 素人が普通に観ても面白いクドカン作品、くらぽーも例に漏れずファンですが、今は前とは少し違った視点で観てたりします。場面転換、話の展開などを参考になるかと思ってるのです。

 そしてそれはくらぽーがなんで昼前に起きるんだって話にもつながります。

 実はくらぽー、ただいま戯曲制作中なのです。皆が寝静まったのを見計らって夜中の4時くらいまでPCでカタカタ書いておるのです。

 元々は好きな漫画を舞台化したら?という遊び半分で作ってたのですが、大学で演劇をやってる元教え子ちゃんに見せたら気に入ってくれて、本気で上演できそうな台本に書き直すことになりました。

 しかし、なかなか本物の演劇用台本っていうのは大変です。一度中学の文化祭でやっぱり本を脚本化したことはありましたが、何も演劇のことわかってないうちに若さのままに作っただけでした。

 これは勉強のチャンスと思って、何故だか井戸に一冊あった本を引っ張り出して読み始めました。それが新藤兼人監督の「シナリオの構成」なわけです。はー、前置き長すぎ。

 なんというか、今までのような小説の類ではないので感想は書きにくい。

 まあいくつかの作品を引き合いに解説してくれるので、非常にわかりやすかったけれど、ドラマツルギー(劇作法)って何だ?という新たな疑問が…。それはまた別の本を読まないといけないらしいです。

 で、あとはどうも構成に関するいろんな覚え書きをまとめたって感じで、系統立ってない。それが唯一の問題。ある意味致命的な気もする、本人も再版あとがきで反省されてるけど。

 ただ、原作ものをシナリオにした例で「エデンの東」を取り上げてて、確かにシナリオライターの腕には感心した。くらぽーは原作があることすら知りませんでしたが、四部のうち最後に全てのテーマを凝縮させてたんですね。ジェームス・ディーンの出世作としか知らなかったので、今度ちゃんと読んで見たいです。
 感想らしいものと言えば、随所に広島弁があって多分気づかずに書いてるんだろうなあと微笑ましかったことですかね。この本を買った人は映画シナリオライターにはなりたかったみたいだけど、ドラマツルギーにはあんまり興味なかったのかな、とか。

印象に残った言葉(原文ママ):
「ひねりとは小手先の器用さをいうのではない。ものを生み出すということが、人生をひとひねりすることなのである。」

「生活の中からシナリオを生み出すという言葉はいい古されているし、いい易くもあるのだが、行うはもっともむつかしい。職人であるか芸術家であるかはこの辺を境として分れている。」

「シナリオの芸術性は、この良い腕をした職人が何を考え、どんなテーマにぶっつかったかということできまる。」

「思切り冷静に人物を心理解剖し、マナイタの上に乗せねばならない。」

「シナリオは沈思黙考ネジリ鉢巻でチエを絞り出すようなものではない。(略)寝転がって構成を立てる時である。」

「深味のあるシナリオが書ける人生はそれほどの人間的深味を持っているのである。何かを書こうとするには、何かに直面しなければならない。」

「創作はすべて理屈から生み出されるものばかりではないのだが、創作の下地に一本通ったものは、はっきりとした理屈に支えられなければならない。」

「構成というものは、横へ横へと突っ込んで行く、ひびきの交響楽、だと考えると、(略)説明だけや単なるお話だけに終る場面は一切存在させられないことになる。」

 うーん、やっぱり読まないよりは全然良かった。構成する時の心構えみたいなものはよくわかりました。ただ、PC向かってる間も頭の中で「ワガシュフ」のOP曲「家庭内デート」が回ってしょうがないんですけど…。
posted by くらぽー at 03:17| Comment(0) | TrackBack(1) | 読んだ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月24日

神話とは訓話なり。

目標体重:48.0kg
目標までの残り:-3.6kg
[ダイエットグラフ表示]
一回目測定
体重:50.8kg
BMI:21.1
二回目測定
体重:51.6kg
BMI:21.5
食事
朝食
ホットミルク/ハムトースト(1口)/昨日の中華スープ卵とじ(1口)/昆布ちりめん(1口)/紅茶3杯
昼食
朝のスープの残り/メロンパン1/2個/紅茶
夕食
とんかつ1切れ/茹で海老アボカドソース1尾/湯豆腐/ご飯1/3杯/お茶/みかん
おやつ
カルシウムウェハース2枚/お茶
 今日は一日、朝からお腹の調子が悪いので、悪びれる必要はないんだけど井戸でのんびりさせてもらいました。「あんた、いい加減に起きんさい!」なんて声で叩き起こされるんじゃ、消化器も縮みあがっちまいますよ。それで、少年少女世界文学全集なるものを引っ張り出して読みました。第1巻は「神話・イソップ物語」。

 前にも書いたように、くらぽーは小さい頃から神話とか大好きだったのですよ。ギリシア神話ならまあ大体の神様名とか言えちゃいますよ(えへん)。でも今回これを手に取ったのは、ちょっとマニアック(?)なエジプト神話や北欧神話が載ってたからなんです。

 こないだテレビでツタンカーメンの特集とかやってて、エジプト神話も面白いなーって思ったんですよね。神様が両手足ついた格好になって大地を覆う天空になってるとか(これがブリッジの格好だったらなお面白いのに)、神様なのに毒蛇に咬まれて死にかける(子どもを呼び集めてお別れをする)が、とか、エジプトの神話はとかくシュールです。

 一方打って変わって北欧の神話は、厳しい悲しい話が多いです。神々はいつも巨人族と戦いを続け、しかも最後には討ち死にして果てるという壮絶なもの。こちらはゲーム「ヴァルキリー・プロファイル」やったことがあるので(未完ですが)、神様名だけは知ってたんだけど、まさかここまで戦いばっかりとは思わなかった…。やっぱり太陽の恵み少ないお国柄でしょうかね。なんか宝物を盗まれたり盗んだり、行方不明の相手を探して世界中をさすらったり。
 ちなみになんかすごい美形の神様がいて、それをベッカムと想像して読むのは楽しかったです。すぐ死んじゃうんだけど…。

 でも神話も、読んでると結構身につまされる、というか人生教えてくれるようで為になりますね。今回読み応えがあるなあ、と思ったのはギリシア神話のプシュケーとエロスの話。
 神エロスは人間の娘プシュケーに恋しますが、彼女はエロスの母アフロディーテに嫌われているので表立っては言い出せない。そこで一計を案じ、姿を隠してプシュケーと結婚する。ところが最初はうまくいってた生活も、プシュケーの姉二人が妬みから、正体はきっと怪物だから調べてみろと唆す。果たして夜、夫が寝ている間に顔を見ると、怪物どころか神様だった。
 目を覚ましたエロスは正体がばれたことに気づき、「夫より姉のひどい言葉の方を信じるなら」と去っていく(その後恋患いで寝込んじゃうのがかわいいんだけど…)。

 そこからプシュケーの大冒険。いやあ、こんな時代に恋に命がけで戦ったヒロインがいるとはね。

 夫を返して下さいとアフロディーテに頼みに行けば、「あんた、あんたのせいでうちのエロスちゃんは病気になってしもうたじゃないの(注:意訳ですから)!」とすごい剣幕。「うちの言いつけを全部聞けたら、考えちゃってもええけどね(注:これも勿論意訳)」と次々に出される無理難題。中には地獄まで行って来いなんてのも。
 しかしエロスは病をおしてこっそり力を貸してくれる。他にも助っ人が現れ、最後にはゼウスが仲介してくれてめでたしめでたし。生まれた子どもには「よろこび」という意味の名前がついたとか。
 はー、辛い試練のあとにようやく訪れる幸せがあるのかもな、としみじみ。そしてまあ、ここに出てくる女たち(含むアフロディーテ)の嫉妬心にはびっくり。「嫉妬」とか「妖」とか「媚」とか「妄」とかやな漢字は絶対女偏なんだけど、これ読んだらしょうがないかー、と思いました。

 あとはイソップ物語は結構キツイですね。猫に鈴をつける話とか、肉をくわえた犬の話、すっぱいブドウの話、北風と太陽、田舎のねずみと都会のねずみ、うさぎとかめ、二人の旅人と熊、有名な逸話はみんなここからきてるんですよね。でもそれ以外にもたくさんいい話がありました。小さい頃にちゃんと読んでたらもう少しましな蛙になれたかも…?

 ちなみに「嬉しい」も女偏でしたね。
posted by くらぽー at 23:39| 不調不調| Comment(0) | TrackBack(1) | 読んだ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月24日

サプリ化する文学たち「漢方小説」

 タイトル通り、漢方についての小説です。でも読後感は漢方みたいなコッテリ濃ゆ〜い滋味のあるものじゃなくて、サラサラしたテクスチャーで飲み易い、いや読み易い。タイトルもひねりがないけど逆にわかり易いわけだし、こりゃどっちかというとお手軽な“サプリ小説”っすよ。

 何がお手軽って、漢方の成立や意味づけとか用語説明までバッチリなんですよ。実はくらぽー、現在健康のためと称して気功太極拳を習いに行ってるんですが、そこで習った型とかの意味がこの本でよくわかる。

 しかし、読み終わった後に本当に面白かったかと言えば、大して面白くない気が…。内容が薄いんです。本としても薄いんだけど。ちょっとした例えなんか言葉遣いはひねりがあって面白いんだけど。自分のテーマとして作品のテーマを明文化しちゃってるし。あそこ削るだけでも締まるんだけどなあ。なんで賞までもらってるのか。

 漢方の説明を取っちゃえば、何のことはない、自分の心と体は密接な関係があることを知る、勿論知ることは大事なんですけど、それだけ。何だか薬局にある漢方を知ろうみたいなパンフレットでも十分同じ内容でいけます。

 全国の漢方組合(あるのかどうかは別として)にはとても嬉しい本でしょうが、どことなくツ○ラとかの陰謀かと思ったりしました(笑

 漢方を処方してくれる先生にときめいてみたり、元カレの結婚に傷ついてみたりする主人公や、周りの人物も一癖あって楽しいのだけど、何だかあっさりしすぎ。もうちょっと長いスパンの話で書けなかっただろうかと思いますが、もともとシナリオ畑の方らしいので長編は期待するもんじゃないでしょう。それとも最近の人間関係がこんなもんなのか?

 ま、それも漢方のようにゴチャゴチャをじっくり煎じた上澄みのみたいなものだと思えばいいんでしょうか。

 でも、オチとして実際こういう小説や人間関係に慣れてる人はコッテリ漢方じゃなくてライトなサプリに行っちゃうだろう、という矛盾がありそうな気がします。文学としての効用も、効いてるような気もするし効いてないような気もする、まさしくサプリです。

 今までの記事中で一番評価低くなりますが、漢方をかじってみたい人には下手な入門書より絶対オススメ。それでもわからなかったら、くらぽーまでご一報下さい。苦情受け付けます。

 でも主人公とは友達になれそうな気がする。同じ匂いがする…漢方の匂いか!


記憶に残る一言:
「病んでるのは昔からじゃん」

「『精神があさっての方向に向いてる』」

「「今は元気だよ、薬飲んでるから」、でも病気が良くなったら、また自分の力だけで生きていかなくてはいけない。そしてそれは厳しい。」

「『アサッテでもシアサッテでも、いいけどさ。好きなコに説教しちゃダメだよ』」

「自らの精神が災厄を招いていることは、そろそろ認める。(略)しかし……。自分の中の何かがそれに反発する。」

「日本の男ってイジメるか、イジメられるかのどっちかじゃん。対等が嫌いなんだよね」

「やっぱどっか壊れてるよ、おまえ」

「私のシーソーも、(略)深いところに落ちる時が、いつか来るかもしれない。どんな深さも、変化も、恐れず受け止められる自分になれたらと思う。」
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2005年09月12日

孤独と拒絶のあわいに「スプートニクの恋人」(ネタバレ注意!)

 司馬短篇集はまたお休みですが(もし万が一待っておられる方にはどうもすみません!)、新しい本の紹介です。春樹ですよ春樹(また無礼だな…)。

 勿論知り合いでも何でもないですが、この作品を読んでやっとこの作家が近くに感じられるようになりました。永遠に宇宙をさまよい続ける衛星。そのイメージはとても鮮やかなほどに伝わってきたように思います。最初に読んだのが、すごく素直に表現されたこの作品だったのが幸いだったかもしれません。この人って、文学的(思考的)というよりは絶対イメージ先行派(芸術的)ですよね。

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2005年08月29日

怪物は誰か?「Another Monster」

 ご存知「Monster」の副読本です。最近、井戸のある地方じゃ深夜に放送してるんですよ。で、本屋でたまたま見つけて。

 ハリウッドで映画化してる最中らしいので、その影響でしょうね。あんまり見たい気はしないけど。昼間はタッチの再放送だし(汗

 広島って再放送ばっかりなんよ…深夜に映画もないし。

 でも読み始めたときはなんか全然別の話みたいで、もしかしてこれはノンフィクションで、「Monster」実話なのか?とだまされるくらいリアルな出来でした。

 でも読んでるうちに、やっぱり浦沢直樹がすごいっていうか手塚治虫がすごいんだなぁ、って思いました。

 「20世紀少年」にしろ、手塚治虫の作品の影響は大きいですね。くらぽーはあんまり詳しいこと何にも知らないけど、自他ともに認める手塚治虫の(漫画業界における)正統な後継者なんだなあ。

 にしても、この写真の人は誰なんだ?


記憶に残る一言:
「怒りは、相手を支配したいという欲求の変化した形だ。彼らは怒りにまかせて、誰かを支配したい。(略)相手の運命をにぎり、喜びをおほえたくなるのだ。」

「歴史に名を残す偉大な人間と異常な犯罪者は、正反対の世界に住む双子ではないのだろうか。(略)望ましい方向に開花するかどうかは環境の問題だ。愛情の問題だ。誰かが、おまえは生きる価値がある、といってくれるかどうかの問題だ。」

「この世には、生も死も善も悪も美も醜も天国も地獄もあるが、すべては反対でありながら双子のような関係にある」

「怪物……?怪物なんておらんよ。(略)彼らを同じ人間と思い、見つめることだ。怪物と呼ばず、われわれと同じ、名前を持つ人間だと考えること……。」

「あなたのお母さんは、ふたりの役を瞬時にできるすごい女優で、それを多重人格といえば、そうともいえるだろうって。ただし、母は無意識ではなく、意識してできたということ……。(略)役者として人を愛する演技をしていたら、本気になってしまったといっていたそうです。」


「人生はハッピーエンドでなければいけない」
posted by くらぽー at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 読んだ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月17日

気になる一言。「天上の虹」より


「あなたが…… 愛そうとなさらないのよ
 手に入れようとはなさるけど…… それは愛とはちがうわ」

 「持統天皇物語 天上の虹」3巻の額田王の台詞より。重い言葉ですねぇ。

 その前に、天智天皇の

「いいのだ どうせ…… 愛されていないのは わかっている
 そういう星の下に 生まれたのだ」

 という台詞があって、それに対して「ちがうわ……」と言って続くのですが。

 他にも似たような台詞がありました。

「愛するのなら信じなくちゃ
 愛されたがってばかりじゃ
 だれも愛せないわよ」(同2巻)

 これは持統天皇の姉、大田皇女の台詞。妹に言ってます。持統天皇は父親似ってことで…。


 額田王は(この漫画の中だけど)こんないいことも言ってます。

「男の人は 自分が手に入れた愛を信じます
 女は…… たとえ手に入らなくても たとえ別れても――
 自分がどれだけその人のことを思っているかで 愛をはかります
 自分しだいです 女の愛は
 そしてそういう 女の強い愛の力が――
 目に見えないところで 男の人を動かしているのです」(同3巻)

 少女時代の持統天皇が、

「女って損ね……
 男の人しだいで 運命がふりまわされてしまうのね
 どんな人に愛されるか―― どれくらい愛されるか――
 夫がどんな立場にいるか――で 女の幸福って 決まってしまうのね」

と愚痴った時にたしなめてくれた台詞。

 まあ、男も女も関係なく、自分の気持ちに自信があれば穏やかでいられるんでしょうね。

 以前「天虹」のファンサイト見たらやっぱり圧倒的に額田王は人気ですねぇ。くらぽーは但馬皇女が親近感持ちます。お子ちゃまなところが(^_^;)

posted by くらぽー at 01:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 読んだ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月29日

常夏の国の、愛は殺人者。「楽園」

 これについては敢えてストーリーについて語るのをやめときます。人によっては読めば意味がわかったり、思い当たる節があったりするでしょう。

 ただ、志麻子姐さんの書くことって、ほんと水みたいにサラサラと入っていくんだよね。これは個人的な差があるでしょうが。

 基本的にこの人とは考えることが似てるんじゃないかと思います。例えば、天国と地獄は、たったひとつの季節(夏)を通じて繋がっているんだろうということとか、故に夏至上主義みたいなところとか(“げしじょうしゅぎ”じゃないですよ)。

 実は、ってバラす必要もないんだけど、くらぽーも季節では一番夏が好きですね。あのめくるめくような暑さに、どこからともなく漂うゴミの腐臭。草は伸び続け、蝉は鳴き続ける。活動と停滞、躍動と倦怠。二つの相反した事象が、なぜだか背中合わせ、否いっしょくたになっている季節。

 それから、青春・朱夏・白秋・玄冬、ってよく人生を四季に例えたりしますけど、あれってイメージ先行だと、くらぽーはどうしても所謂“思春期”や“青春時代”が春じゃなくて夏な気がするんですよねえ。

 あのバイタリティや閉塞感、陰鬱さなんて不安定な時期(殿方の生理的欲求も一番高まる…汗)が、芽生えの春とは到底思えない。いつも何かに渇えている時期。

 よって、くらぽーの勝手に認定する人生の四季では、生まれてから第二次性徴までが春、それから20代後半〜30代前半(家庭を持って落ち着くまで)が夏、子どもが成人するまでを秋、それ以降を冬、じゃないかと思うわけです。どうも中年期を所謂“白秋のとき”とか“思秋期”とするらしいけど、子どもが生まれて家庭ができて、っていう方が実りの季節にはふさわしいような…だってほら受精は夏に(以下略)ま、確かに次第に冬になる晩秋は淋しい感じがしますけどもね。

 しかし、一番哀しいのは夏が終わる晩夏だと思います。収穫が終わった後の、どこかほっとしてしまう晩秋とは違い、ここで子孫を残せないものは枯れていくままの、ここで運命が決まるこわばった寒々しい季節。この「楽園」のヒロインも、「灼熱の夏が逝」ってしまった、まさにその「晩夏」的時期(年齢?)でした。

 とはいえくらぽーのこの分類は、生物としての人間の一生をサイクルとしてなぞらえただけで、個人の一生については言及するものではないんですよー。

 あと、きっとみんなこれを読めばデュラスを思い出すことでしょう。絶対意識して書かれてるし。

 流浪の愛の遍歴には、やはりエクリチュールという流れが似合います。ホラーの必要性は、ないです。まあ「必滅の恋の歌」ですからね。


記憶に残る一言(多すぎて書ききれないのですが):

「(前略)行って帰ってきた人はいないのに、誰もが地獄は極彩色に溢れていると知っているのはなぜだろう。そして天国もまた、そんなに色彩豊かでないことを、どうして皆がわかっているのだろう。」
「夥しい傷跡を隠さずに煌く街はあり、生々しい傷口を晒して輝く人々もいる。」
「私は、消えない夏が欲しい。」
「彼は(略)生きた者が持っていてはいけないほどの、清楚な匂いを漂わせていた。」
「よすぎて、私は悲しい。」
「恋愛は、最初から地獄にあるのよ。あなたは、知らないの?」
「それって、一番の地獄だよ。(略)最も苦しい地獄と天国。」
「違う。(略)あなたが雨だということです。」
「なんの、どんな共犯なのか。私達は。」
「そうして(中略)どこまでいくのか。」

「私には、どちらでもいいことよ。」


 そういえば、前にも書いた「神」と「犬」のモチーフが出てきてびっくりした。なんかくらぽーの思うことよりもっと深い意味があったのか…?(汗
posted by くらぽー at 05:02| Comment(0) | TrackBack(1) | 読んだ本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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